shizukana tori’s diary 

色々と続けたい

111 助けること

善ということについて考えてみる。


偽善や偽善者といった言葉がある。


私は、そもそも善という行為や

行動ということには、何かしら

偽りの部分というものは発生して

しまうものだと考えている。


そう思っているので、この偽善や

偽善者といった言葉も苦手である。


偽善や偽善者という言葉は

善行を行っている相手への侮辱や

突っ込み的な意味合いが多く

含まれていて、素直に善いことが

できる相手への嫉妬や羨望が

ほぼ全てなのではないかと思う。


私も、善いこととされる事をする

のは苦手で、素直に募金ができる人を

本当にすごいと思っている。


ただ、そういう人を偽善者だとは

思っていないし、単純に助け合う

気持ちを持っているんだろうと

思って尊敬している。


仮に、偽善だとしても

自分のお金を知らない人のために

渡すことができるという行為を

誰も偽善などと言うことはできない

だろう。お金ではなくても無償の

ボランティアも時間や労力を提供

できる人も同じく。



一体この偽善という言葉はなんだろう。


偽善だとしても、実行できたらその偽善

という名前から善という名前に変更

するルールを作ったらどうだろう。。



善と偽善はやはり、損得が

関係している。


これからの私の人生でとても重要だと

思い始めている、この善という

行為。何をもって善かは人それぞれ

違うとは思うが、私が思う善という

のは結局、自分の為にやるという

ことなのかもしれない。

こういう風に書くと

それは偽善じゃないかとなるかも

しれないが、偽善というより自己満足

の部分を満たしたいのだと思う。


損得や意味とかではなく

人が生きていく上で、必要なんだと。


無償の行為、知らない相手を助ける

ということをできる範囲でやることは

悩まずに生きていく為に重要なこと

なのではないかと、ふと思ったが

これもまた無理をしないで継続できる
  
ことが重要なのだろう。


ブログを書いたり、軽い運動をする

ように、助けることが生活になったら

シンプルに生きていけるのかと

考えたが、どうだろうか。













この冬で一番寒いけど、今日も一日。